越生は、江戸城を築いた室町時代の名将太田道灌ゆかりの地です。道灌は、龍ヶ谷の山枝庵で誕生したと伝えられ、父の道真と道灌が再興した龍穏寺には、父子が静かに眠る五輪塔があります。陣屋、馬場、砦、道灌橋などの名が遺る小杉の建康寺一帯は、埼玉県の旧跡「太田道真退隠地」に指定されています。そして、新緑に映える黄金色の山吹が、少女の想いを今に伝えています。
山吹の里(埼玉県指定旧跡)
伝山吹の里(埼玉県指定旧跡) 鷹狩りの途中、にわか雨に遭った若き日の太田道灌は、蓑を借りに貧しい民家を訪ねました。すると、出てきた少女が、何も言わずに一枝の山吹を差し出しました。道灌は少女の謎掛けが解けませんでしたが、「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき」という古歌を教えられ、「蓑がない」悲しさを山吹に託した少女の想いを知りました。己の不明を恥じた道灌は、歌道を志し、文武両道の名将になったという逸話の故地です。付近一帯には、古くから山吹が自生しており、かつては地名も山吹でした。また、「法恩寺年譜」や和歌山県の「熊野那智大社文書」には、中世、この辺りに居住していた山吹姓の一族の名が見えます。
越生町西和田 24-3
龍穏寺山門
龍穏寺(りゅうおんじ) 大字龍ヶ谷(たつがや)にある大同2年(807)の草創で、文明4年(1472)に太田道真(どうしん)・道灌父子によって再興された名刹です。江戸時代には、幕府から全国1万5千の曹洞宗寺院を統括する「関三刹(かんさんせつ):関東僧録司(かんとうそうろくし)」に補任、十万石の格式を許され、江戸屋敷を与えられていました。山門(越生町指定文化財)、経蔵・銅鐘(埼玉県指定文化財)など、寺の由緒を物語るさまざまな文化財が保存されており、歴代住職墓地の一角には道真・道灌父子が眠る五輪塔があります。
越生町龍ケ谷 452
麦原の城山
ときがわ町境の尾根の自然要害地形に築かれた山城で、「大津久城(おおづくじょう:大築城)」とも呼ばれています。東西200m、南北50mほどの規模で、大きく4つに分かれた郭、堀切、空堀、土塁の跡が良く残っています。応永年間に越生氏支流の吾那憲光(あがなのりみつ)が築き、のち太田道真・道灌父子が入城、戦国時代に慈光寺を攻略するために、松山城主上田朝直(うえだともなお)が出城にしたと伝承されています。
越生町麦原字城山
山枝庵(三枝庵・山芝庵)
大字龍ヶ谷字山枝庵(さんしあん)の山林内に、斜面を削って数段の平地を造った跡がのこっています。中世の青磁やカワラケ、北宗銭などが発掘されたこともあります。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「寺中三枝庵 門前の小高き所にあり、此所古へ道真入道が居住せし所とならんといへり−中略−道真が自得軒ありしは、此所なるべし」とあります。地元では、ここが太田道灌誕生の地であると伝えています。
越生町龍ケ谷
越生梅林
太田道灌の父、道真は歌人としても名をのこし、一流の文人たちと交流を持ちました。京都から関東に下向した連歌界の第一人者宗祗(そうぎ)も、越生の道真のもとに立ち寄り、「梅が香にくもらはかすめ夕月夜」ほかの句を詠んでいます。文明2年、道真は河越城に宗祇とその師、心敬(しんけい)らを迎えて連歌会を開催しました(「河越千句」)。千句の第一句は、心敬が道真邸の梅を賞美した「梅園に草木をなせる匂ひ哉」です。越生の梅が室町時代から、雅人たちの心を捉える魅力を湛えていたことが伺えます。
越生町堂山 113
建康寺
太田道真退隠地(埼玉県指定旧跡)太田道真は道灌に家督を譲った後、越生に居館「自得軒(じとくけん)」を構えていました。文明18年6月、道灌は友人万里集九(ばんりしゅうきゅう)を伴い、道真を訪ねました(『梅花無尽蔵』)。翌月、道灌は糟屋(かすや)の上杉定正館で謀殺されます。父子最後の対面の場となった、大字小杉字陣屋(じんや)に立つ建康寺(けんごうじ)前に架かる「道灌橋」対岸には、道灌が馬を調教したと言われる「馬場」という地名がのこっています。また、今も堰と導水路の跡がのこる下流の水車「才車(さいぐるま)」の屋号「才」は、城砦(城塞)の砦(塞)に由来するとの説もあります。
越生町小杉 641
最勝寺
源頼朝が家臣の児玉雲大夫(こだまうんだゆう)に命じて、崇敬する慈光寺(じこうじ:ときがわ町)の参拝路に建立させたと伝えられています。戦国時代、上杉謙信の北条氏攻略の際、上杉方の先鋒を務めた岩付城主太田資正(太田道灌の曾孫)が、最勝寺領内での軍勢の違乱を禁じた制札を発給しています。境内には、道灌と同時代に活躍した、越生古池(ふるいけ)田代(たしろ)生まれの名医田代三喜(たしろさんき)の顕彰碑があります。また、寺の東方の字堀之内には児玉雲太夫の墓と伝わる五輪塔が立っています。
越生町堂山 287
如意輪観音
如意(ねおい)の観音様として親しまれている「木造如意輪観音半跏像」(埼玉県指定文化財)は、胎内に平安時代後期の「応保二年(1162)」の墨書がある関東最古の在銘像として、美術史上極めて重要な作品です。明治時代の『堂庵明細帳』に「…高麗郡飯能町にありしを足利代文明十六甲辰年、上杉定正の老臣太田持資入道道灌、同寺より当時采邑なるを以て同年中、本村に移し創立せしと古老の口碑に残れり…」とあります。(※特定日のみ公開)
越生町如意