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渋沢平九郎(渋沢史料館蔵)

渋沢(尾高)平九郎とは

 弘化4年(1847)、武蔵国榛沢郡下手計(現在の深谷市下手計)の名主尾高勝五郎の末子として生まれ、兄の惇忠や長七郎、従兄の渋沢成一郎、渋沢栄一らの影響を受けて育ちました。性格は温厚、 沈着で勇気や決断力があり、所作は美しく色白で長身、腕力があると評されています。
 慶応3年(1867)、渡欧する義兄栄一の見立養子(跡継ぎ)となった平九郎は、江戸に出府し日本 橋本銀町で、幕臣としての生活を始めます。翌年には、徳川慶喜の復権を図るべく成一郎が組織した彰義隊に参加し、その後、惇忠や成一郎と隊を離脱して新たに振武軍を結成しました。
 同年5月、振武軍は上野戦争で壊滅した彰義隊の残党を合わせて飯能町(現在の埼玉県飯能市) に入りました。23日未明から新政府軍と戦闘を開始しますが、相手の圧倒的な兵力を前に惨敗し振武軍は四散、敗走しました。惇忠や成一郎とはぐれた平九郎は、飯能と越生の境にある顔振峠から黒山村(現在の越生町黒山)に下りてきたところを広島藩の斥候に見咎められ、3人を相手に奮戦後、最期を悟り自刃しました。享年22(満20才)でした。

渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)

 実業家。社会事業家。天保 11 年(1840)、榛沢郡血洗島村(現深谷市血洗島)生まれ。幼名栄二郎。号は青淵。生家は 「中の家(なかんち)」と呼ばれる、養蚕と藍玉 ( 木綿の染料 ) の生産 ・ 販売を主業とする富裕な農家であった。7歳頃から隣村下手計村の10歳年上の従兄尾高惇忠に師事する。倒幕運動に参加したが、のち一橋家に仕え幕臣となる。
 慶応 3 年(1867)渡欧、明治元年(1869)帰国。翌年、大蔵省に出仕。辞職後、第一国立銀行を経営、多くの企業設立に関与し、財界の大御所として活躍した。
 引退後は社会事業・教育に尽力。子爵。【写真は渡欧前に撮影。27 歳頃】

写真:渋沢史料館『渋沢栄一渡仏一五〇年 渋沢栄一、パリ万国博覧会へ行く』2017 より転載

渋沢千代(しぶさわ・ちよ)

 渋沢栄一の最初の妻。天保 12 年(1841)、榛沢郡下手計村(現深谷市下手計)生まれ。父は尾高勝五郎。母やへは「東の家 (ひがしんち)」2 代目渋沢宗助の娘で、渋沢栄一の父市郎左衛門の姉。惇忠、長七郎は兄。姉みちは三芳野村(現坂戸市横沼)の大川脩三に嫁ぎ、のちに「製紙王」と称される平三郎を生む。渋沢(尾高)平九郎は弟。安政 5 年(1858) 12 月、渋沢栄一に嫁ぎ、2 男 3 女をもうけた。文久 3 年(1863)に栄一が郷里を出奔して以後、明治元年(1868)にヨーロッパから帰国するまでの間、よく家庭を守った。明治 15 年(1882)、コレラに罹患し死去。享年 42 歳。

写真:渋沢史料館『渋沢栄一渡仏一五〇年 渋沢栄一、パリ万国博覧会へ行く』2017 より転載

尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう)

 明治時代の殖産家。文政 13 年(1830)、榛沢郡下手計村(現深谷市下手計)生まれ。父は尾高勝五郎。母やへは「東の家(ひがしんち)」2 代目渋沢宗助の娘。幼名新五郎。号は藍香。幼少時から学問に秀で、自宅に私塾を開き、近郷の子弟を集めて学問を教えた。戊辰戦争の際には、末弟平九郎、従弟渋沢成一郎らと共に彰義隊、振武軍に参加。維新後は、義弟の渋沢栄一とともに官営富岡製糸場の建設に尽くして所長となり、養蚕、製糸の振興に努めた。長女ゆうは、同製糸場の伝習工女第 1 号。のち第一国立銀行勤務のかたわら、製藍法の改良、研究を行った。 

写真:渋沢史料館『渋沢栄一渡仏一五〇年 渋沢栄一、パリ万国博覧会へ行く』2017 より転載

渋沢成一郎(しぶさわ・せいいちろう)

 明治時代の実業家。天保 9 年(1838) 榛沢郡血洗島村(現深谷市血洗島)生まれ。諱は英明、号は廬陰。従弟の渋沢栄一とともに一橋家に仕え、幕臣となる。戊辰戦争では、彰義隊を組織し頭取に就任するが脱退、振武軍を結成し飯能で新政府軍と交戦する。敗戦後は榎本武揚率いる旧幕府脱走軍とともに蝦夷地に転戦し、箱館の五稜郭に籠もる。維新後は喜作と改名し、渋沢栄一の紹介で大蔵省に勤めたのち、明治 7年(1874)渋沢商店を開き、廻米問屋、生糸売込問屋を営む。東京株式取引所理事長などを歴任し、大正元年(1912)死去。75 歳。 

写真:渋沢史料館『渋沢栄一渡仏一五〇年 渋沢栄一、パリ万国博覧会へ行く』2017 より転載

尾高長七郎(おだか・ちょうしちろう)

 天保7年 (1836)、榛沢郡下手計村(現深谷市下手計)生まれ。尾高惇忠の弟。渋沢(尾高)平九郎の兄。諱は弘忠。江戸で剣を伊庭軍兵衛に、学を海保漁村に学ぶ。各藩の志士と交わり、文久 2 年(1862)、「坂下門外の変」共謀の嫌疑を受け、京都へ逃れる。翌年帰郷し、兄惇忠や渋沢栄一、渋沢成一郎らの高崎城乗っ取り計画を断念させる。元治元年(1864)、誤って人を殺傷して伝馬町牢屋敷に入牢。明治元年(1868) 4 月、赦免されて出獄。同年 11 月病没。渋沢栄一は「大兵のうえに腕力があり、かつまた撃剣においては非凡の妙を得た人であった」と評している。 

※ 尾高長七郎の写真は伝わっていない

比留間良八

渋沢平九郎の首の図

渋沢平九郎自決の地(町指定旧跡)

渋沢平九郎自決の地・渋沢平九郎の墓

渋沢平九郎自決の地(町指定旧跡)

 平九郎が座して最期を遂げた「自刃岩」の傍らの茱萸は、平九郎の血の色を宿すような真っ赤な実をつけることから、「平九郎ぐみ」と呼ばれています。
 昭和29年(1954)には、「澁澤平九郎自決之地」の碑が建立されました。題字は栄一の孫で財界人・民俗学者の渋沢敬三です。裏面の撰文と書は、埼玉県文化財専門調査委員の山口平八によるものです。
 平九郎の首は刎ねられて今市村(現在の越生市街地)に晒され、骸は黒山村の全洞院に埋葬されました。全洞院の住職は白木位碑に「大道即了居士」「俗名不知 江戸之御方而候 於黒山村打死(俗名知らず、江戸の御方にて候、黒山村にて打死)」と記しました。人々は壮絶な最期を悼み、「脱走のお勇士様(だっそ様)」と呼び、首から上の病に効く神様として崇めました。
 明治6・7年、平九郎の遺骸が東京谷中の渋沢家墓地に改装された後、全洞院に「澁澤平九郎之墓」の墓石が建立されました。
 栄一は明治32年と45年の2回、渋沢平九郎自決の地と全洞院を訪れています。

澁澤平九郎之墓(全洞院)

渋沢平九郎自決の地を訪れた栄一一行

全洞院の平九郎の墓に詣でる栄一一行

澁澤平九郎之墓(全洞院)

渋沢平九郎自決の地を訪れた栄一一行

全洞院の平九郎の墓に詣でる栄一一行

澁澤平九郎埋首之碑(法恩寺)

澁澤平九郎埋首之碑

澁澤平九郎埋首之碑(法恩寺)

 今市村では、横田佐平と島野喜兵衛が密かに首を法恩寺に埋葬しました。
 昭和39年(1964)、法恩寺境内に「澁澤平九郎埋首之碑」が建立されました。題字は栄一の甥で電気工学者の渋沢元治です。
 裏面の撰文と書は、「澁澤平九郎自決之地」の碑と同じ深谷市の山口平八(埼玉県文化財専門委員) によるものです。「…その胴体は全洞院に葬られ首級は別に梟されしが里人これを憐れみ密かに法恩寺に埋むすなわち此の地にして後日お首さまと稱されて郷人の信仰を厚くせり…」と記されています。

澁澤平九郎昌忠招魂碑

1912 年 (大正元) 10 月、下手計の尾高家墓所内に、平九郎の甥にあたる尾高次郎(惇忠の二男)が建立。

節死義唱

1937 年 (昭和 12) 5 月、飯能の能仁寺境内に建立。発起人に、説教節の若松若太夫、「飯能の嵐 渋沢平九郎自刃の段」を作詩した大野鐵人の名がみえる。

旧島野伊右衛門宅
(現金子家住宅:国登録有形文化財)

明治32年6月24日、渋沢栄一は、この家に投宿し、翌朝、渋沢平九郎の墓参に黒山に向かった。

太田屋(現新井蘇生堂薬局)

安政5年(1858)3月21日、渋沢栄一は叔父とともに江戸に向かう途中、当時うなぎ屋を営んでいたこの店で昼食をとった。

河田屋(右)木野字屋(左)

河田屋(右) 渋沢平九郎の首を密かに法恩寺に埋葬した横田佐兵衛の居宅。
木野字屋(左)飯能戦争後、渋沢栄一のかつての同僚、比留間良八(彰義隊十四番隊長)は、姉の婚家先の同家の土蔵に潜伏していた。
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